秦恒平著『花と風』

ようやく梅の花も咲きほころび、そろそろ春の気配が漂う今日。

 

わたしは、ここのところ、秦恒平氏による評論集『花と風』を読みふけっていました。

「花」と「風」ということに添えて、時代を越えたさまざまな日本文学より抜粋しながら、著者の思うことを書き綴る、という標題のエッセイ。

少しだけ引用させていただくと、

「花はなぜ美しいのかという問いかけに、花は生き死にかつ甦るから、つまり繰返す生命の象徴であり、繰返しの一度一度が新鮮だからと私は応えたのである。・・四季は、花は、桜は、まことに三十回や五十回の一回一回に、一期一会の、無量百千億の凝縮された繰返しの生命を籠めていて、その重さのままに人の心に甦るのである。・・・花が散る、それはいかにも見馴れた平凡な時空の営みと見えていながら、人はそれに常なき世の哀れを知ろうとし、また逆に悠久とも永遠ともいえるようなものの証しを見た。」

わたしは、都合六年(イギリス二年、アメリカ四年)を海外で過ごしたのですが、どうしても日本に帰ろうと思った、その理由は、この「花」の、それも繰返しにあるのかな、と思います。

暦を読むように、秋一番に咲く秋海棠の花や金木犀の香り、厳寒の最中に蕾をつける椿、そして長い間蕾をつけながら、ようやく春になって咲きほころぶ薫り高い沈丁花。

時は流れて帰ってこないのに、毎年毎年顔を出してくれる季節折々の花々は、人を、どうしても、今ここに引き寄せ、そうしてそこにいることを許してくれている、そんな風にも感じています。

そうして、一方、「風」については、

「ところで、「花」と「風」とは仏典に見られる色と空に相当するであろうか。・・・「花」は「風」に誘われてほころび、「風」は「花」を散らして甦りの新しさを用意する。互いに厳しく他とせめぎ合うことなく、そもそも「花」と「風」とが交互に“繰返し”露れて時空の網を永遠に編みつづけるのである。」

先日翻訳が済んだわたしの夫の著書『空(くう)の世界へ』は、瞑想を実践することの恩恵について説いたものなのですが、その中に、「わたしたちの全てが、魔法を持っているのです。わたしたちはそこから生まれ、それを備えて、そこへ生まれます。しかし、現実生活に慣れるとともに、それへの氣づきを失ってしまうのです」という一文があります。

わたしたちが粋に感じて、ときに狂気なまでに追い求める“繰返し”、それは、わたしたちがそこから生まれ、それを備えて、そこへ生まれる不思議を、実感として、体験したいからなのかな、とも思います。

わたしが出演させていただく次の舞台「風流陣」も、あと二十日に迫ってまいりました。

これは、梅、桃、桜、の木の精が、毎年風の神に花を散らされて、今年こそは懲らしめてやろうと・・・という物語。

今、このときに咲く花の、命の甦りを祈りつつ、精一杯舞わせていただきます。まだまだ春の訪れが待ち遠しい京都ですが、ご来場いただけましたら幸いです。

「風流陣」の他にも、大先輩方の出演される、見所たくさんのプログラムとなっております。

どうぞよろしくお願いいたします。

チケットのお求めはこちらから。

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三月の仮プロ&チケットできました。

まだまだ寒さの厳しい京都ですが、皆さまはいかがお過ごしでしょうか?

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(春の訪れを願って、掛け軸は、「山呼万歳聲」)

さて、三月の邦楽舞踊名流会チャリティー公演の仮プロとチケットが完成いたしましたので、お知らせさせていただきます。

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わたしは、夜の部(午後三時開演)に長唄「風流陣」で出演させていただきます。

これは、梅、桃、桜の木の精が、毎年、冬の寒さを耐えてやっと花開かせたころに訪れて花を散らせてしまう風の神をやっつけようと、縄でわなを用意して・・・。

大正五年十月歌舞伎座で行われた柳橋芸者の「柳会」という踊りの会に初めて上演されたもので、戦災のとき日本橋倶楽部の地下室で亡くなった山岸荷葉さんが歌詞を、四代目杵屋勝太郎さんが作曲をされ、初代若柳寿童(わかやぎじゅどう)がその亡くなる前年に振付をした作品です。

わたしも、四人で一つの長唄を、というのは初めてです。踊りも、立ち合いも、見所沢山のこの舞台、ぜひ、多くのお客様に見ていただけましたら光栄です。

チケットご購入は、こちらのページから、どうぞよろしくお願い申し上げます。